人間は神のパクリです
今日は八時に起きた。少しずつ起床時間が正常値まで戻ってきてる。
それはそうとアニメを観た。『アルジェントソーマ』と『ガサラキ』を観始めた。
とても面白い。
『アルジェント・ソーマ』は情感で押し切るタイプ。『ガサラキ』は論理で押し切るタイプと観た。
ところで創作物云々に関して「〜はーのパクリだ」なんだのいう人が言うけれど、それはあまりにも狭小な見方だと思う。
思想とかそういうものは人から人へ伝播していくのが基本だ。それは偽造ではなく、影響でしょう。
子が親に似ていたからって、その子がその親のパクりだの偽物だという人もいないでしょう。
それと同じようなもので、例えば、『アルジェントソーマ』や『機動戦艦ナデシコ』、『蒼穹のファフナー』を『新世紀エヴァンゲリオン』のパクりだという人がいるけれど、『新世紀エヴァンゲリオン』を『聖書』のパクりだとは誰も言わない。
むしろここで指摘しておきたいのは文化が持つミームの交感作用。
この場合だと『新世紀エヴァンゲリオン』という文化が日本のアニメ界に及ぼした影響が大きい、未だ数多くのアニメがエヴァの影響下・重力下にあるに過ぎない。ただそれだけの事だと思う。
文化とは往来があってこそなんぼのものなのに、所有権ばかりを主張していたのでは何も始まらない。
中国から漢字が伝わらなければ、僕はきっと違う言葉でこの日記を書いていたはずだし、「アルファベットを日本人は使ってはならない」なんて言われたりしたら僕達はきっと予想以上に苦労する。
アイデンティティーとかプライドとかいったものがそういうものを邪魔しているのだと思う。自分が好きなものの権威を高める事によって自身の権威を高めようとするのは、茶道を武士だけのものにしていた頃と精神的な段階がまるで進歩していない。
例えば、日本人はディズニーアニメ『ライオンキング』を手塚治虫の『ジャングル大帝レオ』のパクりだと指摘する事によって、『ライオンキング』のディズニーの権威を貶め、『ジャングル大帝レオ』の手塚治虫の権威を高める事によって、日本人である事に価値を置こうとする人間がごくごく一部ではあるがいる。
しかし、そもそものそもそもとして手塚治虫という人間はディズニーアニメが好きで好きで仕方がなかった。気がついたら、ディズニー映画的な手法をマンガの中に取り入れて成功した。憧れが肥大化してアニメまで作ってしまった。
ところが、日本人の中に「手塚治虫はディズニーのパクりだ」という人間は少ない。
ひょっとしたら、外国人が「手塚治虫はディズニーのパクリだ」と主張しているかもしれませんね。それが届いていないだけで。それを僕達はどう思うべきなのだろう。
だから文化というものは広く誰にでも解放されてしかるべきなんだと思う。
手塚治虫の『海のトリトン』は『機動戦士ガンダム』の富野由悠季がアニメ化の際、監督を務めた。
この似通った雰囲気を持つ二つの作品の間に、共通のものが流れていないと誰が言うのでしょうか。
それはただ、作り手が余所から受け継いだものを自身の作品に練り込むのが上手だったという事に過ぎない。
「パクりパクられ」を指摘されるような作品はただ、それを隠すのが下手だったという事に過ぎないのではないでしょうか。
だからそれを言うと、この僕が書いている日記も何かのパクりなんだろう。
僕が受けてきた「授業のパクリ」、僕が聞いてきた「他者の意見のパクり」、僕が読んできた「新聞のパクリ」、僕が観てきた「映画やアニメのパクリ」
この日記はそういうもののパクリものです。