自分の可能性を考えたとき

 どうやら自分は、考えすぎる性質らしい。どうでもいいことに理屈を重ねて、却って何かをゆがめている自分。
 自分の可能性というものを考えたとき、自分はただ閉塞的な方向に向かっているような気がしてならない。
 時を重ね、自分を愛でるように学問を修めようとするけれども、私はそれを拒絶しようとする心しか動かない。どこか、くだらないと考えてしまうのだ。どこと無く、社会を嫌ってしまうのだ、私は。
 時を重ねるにつれ、あらゆる荷が私の背中に乗り掛かるが、それらはみな、私の心を〆付けるにしか役に立たぬ、ただ虚しいだけだ。
 月並みだが、人生は一度きりだ。一度きりの人生で、得られるものは有限だ。今まで積み上げてきたものを降ろす事ができようか?


 昨日まであった可能性を今思えば、ただ切ないだけである。そして、今出来ることを考えたときに思い浮かぶのは、ただただ恐怖だけである。果たして未来とは何なのだろうか? 時を重ねれば分かるのだろうか? 私はまだ若い。若さの勢いに任せて重いとつらつらと述べてもただただ世間から誹謗・中傷を買うだけだろう。


 「学ぶ」というのはとても残酷なものだ。知ることは身をもって経験するまで分からないが、知ってからでは手遅れである事が多い。


 人間は醜い。全ての人間が、言いたい事だけを言ってしまえば、きっと世界は崩壊する。片方の人間だけが言いたい事を言う。これが一番醜い。歪んでいる。いびつだ。それでいて傲慢だ。
 そして、私が今こうして書いている文章も、そういうものと同類だということは自覚している。そう思うとどうしようもなく苦しくなる。なぜなら、そうなると自己主張をする人間は全て醜く、何より傲慢である自分を自覚するだけだ。
 例えば人との会話。人間は、自分の人生の中で見てきたものでしか物を言うことしか出来ないから、傲慢にならざるを得ない。知識をひけらかし、自己の満足を得ようとする姿はただただ醜い。人とは本当に救いようが無い。自分を省み、反省することはあっても、最後には「自分は他のやつらとは違う」といった歪んだ自覚があるだけだ。
 どうにかして、世間から逸脱しようとしている自分がいる。自分の考えを、他の人が考えることの出来ない、とても優れた思想だと思ってしまう。そして、そういう自分を自覚して、さらに悦に浸り、嫌悪に浸り、悦に浸り、…の繰り返しだ。


 つまり、人間というものはどんなに必死にあがいても、それは酔狂でしかなく、酔狂に気づく事が出来ても、それは傲慢でしかない。人は本当に救いようが無い。
 この文章もそれに所属するのみだ。これは自分の尻尾を追いかけるようなものなのだろう。


 きっと、本当に賢い人というのは、こういう事を分かっていながらも、ただ黙って、真っ直ぐに進み続けることの出来る人間の事を言うのだろう。
 理屈ばかりこねていても仕方が無いし、そもそもそれを他人に漏らせば愚痴にしかならないのだから。
 ああ馬鹿だ、俺って一体何をやっているんだろう。