読了報告 舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』

 今回は短かったなぁとい印象。
 この小説を他の方が読んでどう思うのかがとても気になる作品内容。
 深く読もうと思えば深く読めるし、浅く読もうと思えばただひたすらに浅く。
 意味深な事をたくさん書いて、読者を煙に巻く作品に見えるかもしれないが、きちんと読めば色々な事が拾えると思う。
 ただ、この小説の感想を順序だてて、一つの文章としてまとめられる自信がないし、この小説の感想は文章にするよりも箇条書きにしたほうがいいような気がしたので、過剰書く。

  • 例えば漫画の中で、「お前は漫画みたいな奴だな」とかいう言葉が出てくる事の『現実への挑戦権』とか何とか。
  • 例えば小説家が小説を書く。それを原稿用紙として一つの作品を仕上げる(作品A)。その後で別の小説を書く(作品B)。これも原稿用紙に一つの作品としてまとめる。この二つの作品、AとBには何の関連性も小説家は考えていない。しかしある時、この二つの小説の原稿用紙が風に吹き飛ばされ、ごちゃごちゃになってしまう。その作品AとBの小説がない交ぜになった状態のまま、それを選り分ける事無くそのまま読んだ時、その小説の世界はどうなっているのか。
  • 劇中劇について。小説の中に小説が入ってきたら、それは二次的な小説なのか、何なのか。(『二次的な小説』の著作者は誰か?)
  • 松本零士とかを例えにすれば分かりやすいのだけれども。その小説家が気づいた『架空の世界』とは、他者にとってどんな存在なのか。例えば歴史小説なんかは『実際にあったであろう』出来事があって『実際に言ったであろう』台詞があって『実際にいたであろう』人物がそこに書かれるわけだけれども、そこに『現実』という妥協性は存在するのか?(舞城王太郎の場合、西暁がその作品の舞台として度々登場するのだけれども、『煙か土か食い物』+『暗闇の中で子供』の『西暁』と『九十九十九』の『西暁』、『山ん中の獅見朋成雄』の『西暁』は同じか?)
  • 上の事を平たく言えば、一郎・二郎・三郎・四郎と『九十九十九』は同じ軸に存在しうるのか? とか。
  • それらを踏まえた上でファンフィクション(二次創作等)とはどのような存在になるのか。
  • 例えば(分かりやすく言えば)、スーパーロボット大戦には色々な作品の人間と文化が同一の時間軸に存在してしまうのだけれど、スパロボアムロと『1st』〜『CCA』のアムロは本当に同じアムロなのか?(人間は運命の流れが有って初めて『人格』の存在・乃至実在が許されるはずなのでは?)
  • 例えば、『煙か土か食い物』の『西暁』に『福井県出身』の『舞城王太郎』はその『西暁』の『風景』に組み込まれるのか?(例えば、漫画家の手塚治虫は自分の作品の中に『手塚治虫』を登場人物として時たま組み入れる。この時、漫画という世界は現実に対してどのような立ち居地を取るのか? 『バンパイヤ』に至っては『虫プロ』に所属し、『『バンパイヤ』』に至ってはアニメを製作してしまう『手塚治虫』まで出演している)


 もっと色々書きたいし、これで自分の感じたことの全てというわけではないけれど、頭が痛くなってきたのでこの辺でやめときます。