僕らはどこにも開かない (電撃文庫)作者: 御影瑛路出版社/メーカー: メディアワークス発売日: 2005/05メディア: 文庫購入: 5人 クリック: 73回この商品を含むブログ (135件) を見る

ここでは私の思いのままなんだ。そういう空間なんだ。

 ライトノベルを読むようになってからは、本編よりも先に著者紹介や後書きを読むようになりました。で、この本も先に著者紹介と後書きを先に読んだんです。
 ハイ、この作者1983年生まれ。僕と同じ歳です。この人、僕よりも259200秒ぐらい後に生まれています。そのくせ、こんな小説を書けるなんて凄いと思います。あと1983年生まれの作家といえば金原ひとみがいますね。これらの人達が、僕と同じ時間を生きているのだと思うとなんだか不思議な気がします。
 僕が小六の時にこの人も小六で、僕が高三の時にこの人も高三だったんですよ。小学生の時に『機動戦士ガンダムF91』を観に行ったのだろうか? 小学館の学年別学習雑誌や学研の中学○年コースとかも読んだりしたんだろうか? 僕達が最後の世代なんだよね、僕達が中学校を卒業すると同時に『中学○年コース』は廃刊になっちゃったから。
 余談終わり。


 なんだか、感想を書く前から感情移入し過ぎですね。それだけに、今回の感想は情が入り過ぎるかもしれないのでご了承くださいです。


 他の方の感想を茶化すようで悪いのですが、これを西尾維新の『戯言』シリーズの劣化コピー版だとか、ファウスト系だと片付けてしまうのは早計で的外れだと僕は思います。


 まず思ったのが、題名とペンネームのセンスの無さなんです。品が無いというか、何というか。
 象徴的な事物をタイトルに持ってくるのではなく、まんまその話の雰囲気を押し出してしまう。僕はそういうのが嫌いなんです。たとえば『世界の中心で、愛を叫ぶ』だとか『冷静と情熱のあいだ』みたいなタイトルは嫌いです。最近はそういうタイトルが多いのが気になります。おそらくこれは現代人の「奥を読み取る力」が衰えてきているのではないのかと思うのです。僕が好ましいと思うのは、例えば『門』だとか『草枕』だとかそういうもの。とあるサイトでもこの指摘があり、世相的にそういう傾向のようです。そのサイトでは「やたらと長い軟弱なタイトル」と表現されていました。まあ、『我輩は猫である』なんてものもありますが(笑。
 ペンネームについても同様。小説家志望向けのサイトである『ネガティヴなアドヴァイス』内では「なんか綺麗な漢字を組合せるのはイタい。」とあります。僕はこの傾向をインターネット上のコミュニティにおけるオタクのハンドルネームにも見て取りました。僕は内心、彼らのことを「よくも恥ずかしげもなくそんな名前を自分につけられるものだ」と思ったものです。ところで、昔の小説家は例えば故事成語夏目漱石)や尊敬する作家(江戸川乱歩)などにあやかったりしてペンネームを決めたものです。それでなくても、他者からの認知をよくするために音韻に気を使ったり読みやすい漢字を使ったりとしていたものです。なんだか、現代と逆のような気がするんです。つまり、その手のネームというのは「他者からの理解を求める」ことに無感覚であり、「自己を満足させるため」だけであるという意味で象徴的なんです。
 そういう意味で、こういう小説です。


 例えば『剣と魔法の冒険ファンタジー』になら「お姫様」や「竜」や「鎧」などが、その世界のコードとして決定され、読者はそういう風に身構えます。「三回回ってワンと言え」という言葉を聞き、それに従う時、その人はデングリ返しをしたり側転やバク転をしたりグランドを三周したりすることなく、皆が同じようにできるのと同じです。ラジオ体操みたいなものです。皆が同じ言語に対する認識があるから同じように動ける。全く何も知らない人が「体をねじり反らせて斜め下に曲げる」とか「腕を振って脚を曲げ伸ばす」とか言われても、その言葉の一つ一つの意味を額面通りに受け取れたとしても、それがすべてこちらの臨んだ通りの行動として出力されはしません。インターネットのブラウザがエンコードの違いで、時として文字が化けてしまうのと同じようなものです。
 この小説は多人数視点で、主要人物は四人。彼らがそれぞれを観察し、自身の内語を使って、互いを観察し、評価し、裁く。ただし、それらの多人数視点という装置が互いに何かを補完するという風には機能してない。珍しいことだと思う。彼らはむしろ、互いが互いを見下し合い、どちらが上かの判断を、一人称小説であるにも関わらず三人称小説的に、読者に委ねている。
 例えば、これが純粋な三人称小説ならばどの登場人物が幸せになったかで、判決を読者に委ねる場合が多い。例えば、三国志ならば、能力主義曹操は裏切りに会う、人徳主義の劉備は慕われる、時代に適応した司馬懿は最終勝利を収める、…といった具合になり。また、一人称小説ならその人の内面が救われたかどうかで、読後感を得る。例えば、ホールデン少年の”純粋”への憧憬が大人への嫌悪に繋がる、といった具合だ。
 しかし、この小説はそのどちらでもない。一人称小説で、多人数視点で、なおかつライトノベルとなるとそういえば『ブギーポップは笑わない』があるけれど、これはそれとも違う。
 ところで、この小説の著者は理工学部なのだそうである。文章も理系っぽい。影響があるかはどうかは分からないが、スケールの違いはあれど森博嗣を連想させられる。前半は若干、話への引き込みが下手だが、二人目(仮にBとする)の登場人物視点の物語が始まりその二人目が一人目(仮にAとする)の登場人物への評価が出てきた途端に面白くなり、そしてBにとっての「敵」的な存在(仮にCとする)の視点が入り始めると爆発的に物語が面白くなる。
 ところで、僕達の世代は小賢しい世代だと思う。義務教育+高校(+大学)で、世界への諦観のようなものを覚えてしまうことが多いと思う。色々なことを学んだ先に僕らが得るものは時としてニヒリズムだ。日本の常識が、アメリカでは通じない。現代の常識が、過去や未来の常識とは限らない。ということをそれらの教育の中で悟る人間も多いと思う。その時に、僕達が考えることは「この世界に絶対的に正しいことなどない」というものだ。愛とかいったものすらも、生物学とか哲学とかいったものがその幻想を取り払ってしまう。
 そういう意味で、僕達は気詰まりなのだ。それでも何とかしようとあがいて出てくるのが、この物語に登場してくる人物、A、B、Cである。
 そして、そういう風に生まれてきたBとCが互いに憎みあっているのだからこれは明らかにパンクせざるを得ない。ヒトラーユダヤ人を憎み、世界史がヒトラーを悪人にし、そしてそれらのどれもが正しいとは言えないということになった時に見えるものはなんだろうという正体不明のもやもやした思想がこの小説の中にはあると思う。そして、敵でも味方でもない主人公Aは、そういえば最近のマンガの主人公的な「主体性の無い奴」ではあるけれど、なぜそういう人間がいるのかということを著者はきちんと考えて内面を描写しているため、物語が深化している。
 多人数視点であることに成功し、なおかつ一人称小説としての一つの完成形ではないかと思う。
 少し残念なのが、前半の丁寧な内面描写に比べると、後半がやや尻すぼみ的に”カタルシス”に逃げてしまったこと。それでも、目を覚まさせるような一言もあったりするのでとりあえずは妥協できる。
 ファンタジーの象徴性や、SFの可能性を物語に導入できるようになれば、”売れる”小説も書けるようになると思うけれど、この人がこれからどんな話を書きたいと思っているのかを楽しみにしたい節もある。頑張って欲しい。


 それから、この人、2ちゃんねるやってるよなぁ、多分…。144ページの第一行を見た途端に吹き出しちまったよ。