僕をだめにした100の言葉

俺は他人をせめることは出来ない、自分の内にはもっと恐ろしいものがあることを反省しないではいられないから。自分の心のけがれを思うのは情けないが、他人の罪に寛大になれるのはうれしい。しかしその為に罪を罪のまま許すようになるのは恐ろしい。自分のわるいことを本当に知っている罪人は自分を正しいと思い込んで他人を責める人間よりはずっと幸福だ、その人は神の愛を知ることが出来るから、そしてありがたいとか勿体ないとか云うことを本当に知ることが出来るから。この世に一番救われないものは神にたいして不平をもつ奴だ。武者小路実篤著『幸福者』)


 おお、「武者小路実篤」って一発で変換できるんだね。昨今のIMEは「ドラえもん」も一発変換できるみたいだし。技術の進歩って偉大だにゃ。いえ、今日私が言いたいのはそういうことではないのです。
 最近、というか今日からなのですが、このごろ私は西尾維新その他ミステリー小説群にのめり込むあまり、私の本来の持ち味である純文学から遠ざかっているような気がするのです。幼い頃は、夏目漱石で鍛えたこの文章読解能力と文章執筆能力、そして思考力。楽ばかりしていては、腕も頭も劣ると思ったので、久方ぶりに純文学に戻ろうと思いました。
 さて、巷では考えの薄い無神論者が増えているわけですが、この小説。武者小路実篤著の『幸福者』という小説は、「神」とかいった単語が連呼されています。
 私はかつて神さまとか仏さまとかいうものを信じていた者の独りです。幼い頃、神様(もとい仏様。幼い子供にこれらの区別を求めるのは酷というものだろう。)を恐れ、不正をせず、心を真っ直ぐにし、人に親切にし、悪意ある考えが心に浮かぶことすら恐れていたものです。心に悪い考えが浮かぶことすら恥じたのはかの哲人皇マルクス・アウレリウス・アントニヌスでしたでしょうか? アントニウスでしたっけ? 確か五賢帝の最後の人だったんですよね。パックス・ロマーナってこの人たちの時でしたっけか? こりゃ現役生に笑われるな。後でググって調べてみよう。で、話はだいぶそれましたが、プラトンという古代ギリシャの哲学者は、哲学者が国を治めるのを理想とした人なのです。(ひょっとして、プラトンは自分をよいしょしたのかな。まさかね、でもプラトンも人間だしね。歴史と死んだ人は美化されるって言いますしね。)そして、マルクス・アウレリウスというのが、人類史上唯一の哲人皇帝だったわけなのです。
 アメリカときたら、いえアメリカに限らず日本もなのですが、どうでしょう? 映画俳優が政治家ですってよ!!! どうなるんでしょうね、アメリカ。きっとプラトンも、マルクス・アウレリウスも、孔子も、イエス・キリストもあの世でこの世界の現状を嘆いていることでしょうね。ノック都知事セクハラですってよ(いつの話だ。)女体盛りですよ女体盛り。実にそそりますよね。まあ、気持ちも分からなくは無いですが。不 謹 慎 ♪(←これこそが不謹慎) まあ、石原裕次郎都知事は頑張ってくれたみたいですけど、これからどうなるんでしょう。シュワちゃん、きちんと政治の勉強しているのかしら。シュワちゃん婦人の人気があるっていうのは聞いたことがあるけど・・・。
 今朝のニュースで、ファッションショーは女性を見せ物にするから差別だなんてトピックを耳にしましたが、どうなんでしょう。スポーツはスポーツ選手を見世物にするから差別なんでしょうか。相撲はデブを見世物にするから差別なんでしょうか(違。いえいえ、それが彼らの仕事なのではないのでしょうか。そもそも男子女子の差別の撤回というものはとても大切なことです。しかしそれは、純粋に人としての能力を評価しろ、という事ではなかったのでしょうか。
 人とは何でしょうと理詰めで問い詰めるのは荒唐無稽。しかし、それを考えることは必要であり、有意義なことであると思います。神様はいると僕は思うのです。確かに、神が人を創ったのだと僕は思うのですよ。人としての共通意識。美への羨望。
 つまり、「生きることを美しい」としてくれるのは神様なわけですよ。今の世界の現状、モラルの低下。これらを本当に美しいと感じますか? 感じませんよね。なぜなら、皆が神様を忘れているからなんですよ。
 僕たちは神様を信じることによって、心に一本の真を通し、神を恐れることで悪を嫌うことが出来たのです。
 神に近づくということはつまり、神さまを信じなくとも、善い行いが出来る人間。
 最近やさぐれている私ですが、そういう人間に私はなりたい。