NHK衛星第二 ハイビジョン特集「スマイル」
- アーティスト: The Beach Boys
- 出版社/メーカー: CAPIT
- 発売日: 2001/04/20
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- アーティスト: Brian Wilson
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僕は基本的にアニメ・ゲーム・マンガが好きなタイプのオタクで、常識や流行に疎く今日びのPOP音楽なんか全く駄目な訳だけれども、The Beach Boysは好きです。
ビーチ・ボーイズを知るきっかけとなったのがファウストvol2 (講談社 Mook)の上遠野浩平先生のコラムだった。このコラムというのは連載モノで、洋楽に関するものだった。ファウスト vol.1 (講談社MOOK)の中ではAnimalsが紹介されていて、僕の琴線に触れるものがあり実際聴いてみたらPINK FLOYDをどうしようもなく好きになった。
そして、次に何を紹介してくれるんだろうと心待ちにして知る事になったのがこのビーチ・ボーイズと『Smily Smile』だった。
何かを追求する事の苦悩というのを僕は全く知らなかった。芸術にのめり込んで落ちていく人間というのを僕はどこか馬鹿にしている節があった。日常あっての芸術であるはずで、生産あっての生活だと思っていた。
何の疑問も無く『アリとキリギリス』を信じていたわけだ。
でも、最近になってようやく人間の業というものを感じるようになった。大学受験の失敗から、滑り止めで受かった大学で特に勉強に熱を入れるわけでもない自堕落な生活を送っていた僕は、次第に世間と自分との溝みたいなものを感じた。
それは例えば、自分の常識の無さだとか、そこから来る人との隔たりだとかだ。
高校の頃の僕は何の疑問の余地も無く生活を送っていたし、勉強もそれなりにしたし、友人にも恵まれたし、何より部活が楽しかった。
だから駄目だったんだと言ってしまえば、高校の友人に失礼だろうか。
大学生になってから世界が広がったのは確かだけれども、その世界の広さにただ唖然とした僕はとにかく焦った。勉強なんかしている暇は無いと言ってしまうと逃げになる。今思うとそれは逃げだったが、とにかくその時の僕は遅れを取り戻そうとした。
その時にしたことといえば、"有名な"少し古めの映画を観たりや"有名な"少し古めの音楽を聴くことだったり、流行に乗ってみたりする事だった。
そんな中で西尾維新を知ってファウストに流れるのは些か歪んでいるとしか言い様は無かったけれども、そうした状況下で僕はビーチ・ボーイズを知ったのは幸運だった。
ビーチ・ボーイズは十代の人間を歌ってくれている。音楽の専門的な良さは分からず、ただ聴く時は、リズムが気持ちいいかどうか・音が綺麗かどうか・歌詞は何を訴えているのか。という箇所でしかその音楽を鑑賞することが出来ない。
それでも一生懸命感じようとした中で『Pet Sounds [from UK] [Import]』の中の「I JUST WASN'T MADE FOR THESE TIMES(駄目な僕)」を聴いた時なんかは、この音楽を作った人達を一生追いかけ続けようと思ったぐらいだった。
何といってもその歌詞というのが
I Keep looking for a place to fit in
But I can't speak
My mind
And I've been trying hard
To find the people
自分が溶け込める場所を探し続けているんだ
だけど僕は思っていることを
口に出す事ができない
いつまでも付き合えるような人たちと
何とかして知り合いたいと
僕は必死になっているんだ*1
と来たもんだ。
もうどうしろと。
これが普通なら例えばブルーハーツだったりするんだろうけど、J-POPに弱い僕はこのビーチボーイズにすがる事になったわけだった。
さて、『SMILE』の話になるわけだけれども、このアルバムが完成されるまでには本当に紆余曲折があった。
主要メンバーであるブライアン・ウィルソンというのが内向的な性格で、もう一人のメンバーであるマイク・ラブの陽気さとが上手く交じり合って良い曲を生み出す事に成功した、というのがファンの間での物の見方だ。
そんなブライアン・ウィルソンというのが究極の"何か"を作ろうとしたわけだった。
物の考え方が青臭い時期によくある事だけれども、自分一人だけは自分自身の事を特別な存在と見なす事があると思う。感覚的に世間の"大人"を汚いと思ってしまったり、けれどそれが具体的にどう汚いのかは分からなかったりするそういう時期。
ブライアン・ウィルソンがこのアルバムを製作するときに立てたコンセプトというのが「神に捧げるティーンエイジシンフォニー」というヤツだった。
僕が思うにそれは十代のもやもやしたものを究極的に磨き上げて音楽に仕立て上げ、その心というヤツの正体を寸分違わず性格に描き出す事を言い表したのではないかと思う。
そして、そんなモノと生真面目に向き合えば人間が壊れてしまうのも当然というわけだ。
ブライアン・ウィルソンは幻覚を見るほどに疲弊し壊れた。今から37年前の事だ。
だから、37年後にこのアルバムが出たことを知った時の僕はただ嬉しいというだけではない運命的な何かを、十代の宿命にケリをつけるという意味での不思議な符号を感じたわけだった。
名曲「GOOD VIBRATION」を初めとして、ビーチ・ボーイズのお家芸でもあるコーラスもさることながら音楽が本当に綺麗なのだ。その綺麗さを表現するために、人間はよく「〜のように」という表現を使う。けれど、この音楽の綺麗さを表現するには何に似ていると言えばいいのだろう?
一人の人間が一つの芸術を完成させるということ。この文章を読んでくれる人間は、つまり僕とは微妙に違う時間に生まれながらも、一時的に時間を共有している人間だ。
だから、同じ映画や音楽やアニメやゲームについて語ることができる。それは例えば、今日という2005年8月21日だとしても、僕にしてみれば22歳の大学生の夏休みだし、他の人にしてみれば23歳の会社員、17歳の高校生だったりする。
同じだけど違うわけだ。
僕はこれから23歳になるし、以前は17歳だった。
だから、他人の存在がどうしようもなく愛しいし、かつてブライアン・ウィルソンだって僕と同じ年だった時期があるわけだ。
だから、一人の人間の一生というのは大切なもので、その一生をかけて一つの芸術を造り上げるのはとても素晴らしい事なのだと思う。
知ることが出来て・聴くことが出来て良かったと思えるとはそういうことだ。
だから、現代の大量生産大量消費を嫌っている部分も僕にはある。安かろう悪かろうの概念を芸術にまで持ち込んでどうしようというのだろう。
ということを今日は考えた。